1932年。ミラノ郊外に位置するカンビアーゴ村でエルネスト・コルナゴは生を受けた。12才で溶接工場に働きに出た当時の彼の給料は毎週2kgの小麦粉だったという。
溶接工として地道に働き、幾多の勝利を手にする優秀なロードレース選手でもあったエルネストは、1954年独立し、念願であった自らのチクリを生まれ故郷であるカンビアーゴに創設した。ちなみに現在でもコルナゴ社はエルネストの故郷カンビアーゴから高機能ロードフレームを全世界に送りつづけている。
チクリを創設してまもなくコルナゴが製作した自転車はローマ五輪でいきなり金メダルを獲得し、脚光を浴びはじめるが、後に彼はカリスマとしての更なる運命的な出会いに巻き込まれていく。
コルナゴ56年のヒストリー、すべてはここから始まった。
ロードレースの選手として将来有望と嘱されたエルネストコルナゴは、落車による骨折で選手生命を絶たれる。その後はメカニックとしての人生を歩み始め、カンビアーゴに自らの店をオープンする。
右は弟のパオロ
技術を公に認められたエルネストは、当時破竹の勢いで活躍していたプロロードレースチーム「モルテニ」のメカニックとして、その手腕を発揮するかたわら、「史上最強の選手」と後に謳われることになるエディー・メルクスに自作のフレームを提供する。
チミラノ-サンレモで、ミケーレ・ダンチェリ感動の優勝。
この時よりクローバーのマークをシンボルとして使う。
真のサクセスストーリーはそんな風にしてはじまった。エルネストの情念を織り込まれた高機能なマシンはやがてメルクスを幾多の勝利へ導き、コルナゴの自転車作りに対する優秀性を世に知らしめることになる。
1972年。メルクスは「自転車選手にとって最高の名誉」といわれるアワーレコードに挑戦するため、エルネストとともにメキシコシティーに降り立った。コルナゴ製5.7kgのトラックレーサーは、当時として画期的なまでの軽量化の中に強靭さをたたえながらメルクスの走りを支え、前人未到の49.432kmを達成。
コルナゴは世界の自転車史の中で名実ともその頂点に達することとなる。
エディー・メルクス、コルナゴ製マシンで49.431Kmのアワーレコードを樹立
最強伝説の頂点へ駆け上がるコルナゴはこの年、ローマ法王ヨハネパウロ2世に拝謁し、黄金に輝くロードバイクを献上し、名実ともに世界一のロードバイクブランドと称される。
19歳という異例の若さでプロ入りしたジュゼッペ・サロン二は、1979 年のジロ・デ・イタリア初優勝を皮切りに、後にサロン二カラーと呼ばれる赤いマスターでこの年の世界選手権優勝を優勝。その後、数々の大レースにおいて勝利を量産。コルナゴを最強ブランドへと押し上げた。
その後もジュゼッペ・サロンニをはじめとするスター選手がこぞってコルナゴのマシンの使用を求め、数多くのプロチームに供給されるフィードバックにより、ますますその機能と美しさに磨きをかけていった。
神童と謳われたジュゼッペ・サローニ、デルトンゴ・コルナゴチームとしてジロ・デ・イタリアに圧勝
フェラーリとカーボンフレームの共同開発をはじめる
1994年。
コルナゴはトニー・ロミンガーによって再びアワーレコードを55.291kmという驚異的な記録により達成する。
その後の、ヨハン・ムセウやアンドレア・タフィ、アブラアム・オラーノ、パヴェル・トンコフなどマペイチームのコルナゴによるワールドカップ、世界選手権での快進撃は記憶に新しい。
トミー・ロミンガー、コルナゴ製マシンにより55.291Kmの驚異的なアワードを樹立する。
革新的で斬新的な開発に対するバイタリティーを真髄とするコルナゴの姿勢は、機能的で洗練された外観を持つストレートフォークや、高いパワートランスファーを持つリブを入れた星型断面チューブ、またエアーブラシによるビビッドでとろけるようなカラーリングの実現など、常に最先端に挑戦しつづけてきた。
フェラーリとのコラボレーションの集大成C-1を発表。
1980年代の後半、コルナゴは、レーシングカーを代表するブランド、フェラーリとのカーボンファイバーを使った共同開発プロジェクトにおいて、さらにその輝きを証明されることとなる。そうしたフェラーリとのコラボレーションを踏襲する中、バイオメカニクス的な理論とフィードバック、最先端素材加工技術の融合により、「伝説の有機体」と呼ばれたカーボンフレームの傑作C35が誕生した。その技術は現在のカーボンフレームの中で最もパフォーマンスが高く最も美しいといわれるC40,C50の系図につながるものである。
フオスカル・フレイレ、コルナゴマシンにより世界選手権優勝。
3位までコルナゴマシンが独占