COLNAGO HISTORY

エルネスト・コルナゴは今年で満82歳。15歳の時にレースで初勝利し小柄な体格ながら持って生まれた才能で将来を有望視されるが、20歳になる目前のレースで左足を骨折。この時点で早くも選手生活にピリオドを打つこととなる。『無我夢中に働き、8時間労働の時代に連日16時間も働いた。要するに起きている間中はほぼ仕事をしていた。』オフィスでは朝誰よりも早く出てそして一番遅くまで仕事をする。選手生活を断念しフレームの製造に携わり60年を経った今でもその姿勢は変わらない。バイクをプロチームに供給し続け、そのレースにかけるひたむきな思いがこれまで多くの優秀なチャンピオンを輩出してきた。
1956

コルナゴ61年のヒストリー、すべてはここから始まった。ロードレースの選手として将来有望と嘱されたエルネストコルナゴは、落車による骨折で選手生命を絶たれる。その後はメカニックとしての人生を歩み始め、カンビアーゴに自らの店をオープンする。右は弟のパオロ。

コルナゴ誕生

チミラノ-サンレモで、ミケーレ・ダンチェリ感動の優勝。この時よりクローバーのマークをシンボルとして使う。

1972

エディー・メルクス、コルナゴ製マシンで
49.431kmのアワーレコードを樹立

レースの歴史に名を刻む。
Giuseppe Saronni
1982

19歳という異例の若さでプロ入りしたジュゼッペ・サロン二は、1979 年のジロ・デ・イタリア初優勝を皮切りに、後にサロン二カラーと呼ばれる赤いマスターでこの年の世界選手権優勝を優勝。その後、数々の大レースにおいて勝利を量産。コルナゴを最強ブランドへと押し上げた。1983年にはルトンゴ・コルナゴチームとしてジロ・デ・イタリアに圧勝。

トレンドを作りあげる初期段階というものはとかくマイナスなイメージがつきものであるが、世界で最も難易度が高い石畳のレース「パリ~ルーベ」においてC40(当時のフラッグシップモデル)を駆るライダーが連勝を飾ると、世の注目は一瞬にしてカーボンへと向かうこととなった。エルネストが目指す製品づくりはレースで得られたノウハウを確実に製品へフィードバックさせるというもの。過酷な環境下においては速さ、強度、振動吸収性が求められ、それらが高い次元で融合したものだけが製品化される図式はこのようにして当てはまるのである。
1986

コルナゴに乗るということは勝利へ近づく大きな一歩であり、またステイタスシンボルでもあった。振動吸収という観点でより良い素材を求め、カーボン素材に着目したのもやはりエルネスト。フェラーリ社とのコラボレーションで誕生したモデルは当時としてはあまりにセンセーショナルすぎた。

名勝負を繰り広げる。

トミー・ロミンガー、コルナゴ製マシンにより55.291Kmの驚異的なアワードを樹立する。

ミケーレ・ラスムッセン、ツール・ド・フランスで
山岳賞をExtreme-Cで獲得

オスカル・フレイレ、ツール・ド・フランス3ステージ制覇。

アレッサンドロ・ペタッキ、自らの為に開発された「Extreme-Power」を駆って勝利を量産。

Yukiya Arashiro
2010

日本を代表するロードレーサーである新城幸也が所属するブイグテレコムへの供給が決定。この年のジロ・デ・イタリアで日本人最高位のステージ3 位、ツール・ド・フランスではステージ6 位、世界選手権ロードレースでは9位に入る快挙を成し遂げる。

新城幸也、全日本ロードチャンピオンの証である日の丸ジャージを纏い、4度目となるツール・ド・フランス完走を果たす。

世界最高峰のレース「ツール・ド・フランス」に出場するチームにも機材供給を行い、数年来のパートナーシップを築いている。多くのコルナゴを愛する者たちが明るい未来へ向かってペダルを漕ぎ続けること。これこそが歴史を刻む最良の手段なのかもしれない。

フラッグシップモデル「C60」が発売開始される。

WIGGLE HONDA所属の萩原選手が
GIRO ROSAにてステージ優勝を成し遂げる。

そして未来へ

新たに結成された「GAZPROM」チームへ機材供給を開始する。